略歴・ファミリーヒストリー

亀井亜紀子 略歴・ファミリーヒストリー

【略歴】

1965年 東京都生まれ(本籍:津和野町)

1988年 学習院大学法学部政治学科卒業

1992年 カールトン大学(カナダ)マスコミュニケーション学科卒業

帰国後、英語の通訳を始める。商談、建設、訴訟、報道、スポーツイベント等、幅広く仕事を受注。長野オリンピック、日韓ワールドカップ、東京ディズニーシープロジェクト通訳。

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1996年、総務庁(当時)主催「世界青年の船」に参加し、国際交流を始める。「世界青年の船」、「東南アジア青年の船」、「ピースボート」にスタッフ乗船し、世界各地を訪問。

亀井久興衆議院議員の議員外交(各国との議員連盟など)を補佐し、後に政策秘書となる。

2007年 参議院選挙初当選(島根選挙区)
2017年 衆議院選挙初当選(比例中国)
2021年 衆議院選挙惜敗
現  在:立憲民主党島根県連代表、立憲民主党島根1区総支部長

趣  味:スキー、音楽鑑賞、ピアノ、食べ歩き、神社仏閣巡り
座右の銘:「人間万事塞翁が馬」

【ファミリーヒストリー】

 NHKの番組で出演者の先祖を調べるドキュメンタリーがありますが、私もこのコーナーで亀井家に関する歴史を書いていきたいと思います。その理由は、インターネット上の記述や出版物、商品の由来(説明文)等が亀井家に伝わる史実と異なっているので、書き残しておかないと誤った情報が真実とすり替わってしまうのではと危惧したからです。またこれを機に先祖について調べ、自分自身のルーツに向き合う所存です。

1. 亀井家初代は因幡(いなば)国(のくに)鹿野城主「亀井茲矩(これのり)」
 亀井家は鹿野城主(現在の鳥取県鹿野町)だった亀井茲矩(1557~1612)を初代とし、父(亀井久興(ひさおき))の兄、亀井茲基(これもと)は第16代当主です。亀井茲矩は1557年、出雲(いずも)国(のくに)湯之庄(ゆのしょう)(現在の松江市玉湯町)に尼子(あまご)家臣であった湯(ゆの)永綱(ながつな)の息子、湯(ゆの)新十郎(しんじゅうろう)として誕生します。1566年、尼子氏の居城・月山富田城落城時に10歳、1569年、父の湯永綱が月山富田城奮回戦で討死した時は13歳でした。父の死後、新十郎は四国伊予(いよ)国(のくに)(現在の愛媛県)等を放浪し、やがて因幡国にて山中(やまなか)鹿介(しかのすけ)と巡り合います。

 山中鹿介は尼子重臣・亀井秀綱(1566年討死)の長女(高松院)と婚姻し、次女(永寿院)を養女に迎えて保護していました。鹿介は新十郎を気に入り、1574年、永寿院との婚姻によって亀井家の名跡を継がせます。つまり山中鹿介と亀井新十郎(茲矩)は妻同士が姉妹という姻戚関係になります。

 このように亀井茲矩の先代は秀綱、と史実としてわかっているのですが、現在の亀井家は亀井茲矩を初代として数えています。

 なお、亀井静香氏の先祖と亀井茲矩が兄弟だと書かれたものがありますが、史実とは異なります。(上記の通り、亀井茲矩は湯新十郎として誕生しているので、亀井姓の兄がいたというのはあり得ない話です。)亀井静香氏の先祖について、こちらの亀井家では把握しておりませんが、出身地の庄原が月山富田城から近いので、尼子家臣であったというのは事実なのだろうと思います。実際、月山富田城(現在の島根県安来市広瀬町)周辺、広く出雲地方には尼子残党の子孫が脈々と生き残っており、「うちは尼子系」という会話が今でも成り立ちます。毛利に負けた側なのですが、尼子の結束の固さには驚かされます。

2.亀井塚の由来について

 松江市竹矢地区の国道9号線から脇道(旧街道)に入ったところに亀井塚共同墓地があります。「塚」というのは「古墳」を意味しており、この共同墓地全体が一つの古墳です。
 ここに埋葬されているのは亀井茲矩の義父にあたる亀井能登守秀綱。江戸時代には津和野藩から毎年弔問使が詣で、墳墓の近くには小堂(亀井堂)が建てられていたと伝わっています。

 亀井秀綱は、尼子家の重臣でした。伯耆誌によると、本庄森山村、簾(すだれ)岳城主であり、竹矢、森山、境外江を治めていました。簾岳とは現在の美保関森山地区、境水道の幅が最も狭くなる地点(真向かいが境港フェリー発着地)に位置する小高い山です。
 昔はここに渡し舟があり、交通の要衝であったとのこと。恐らく亀井家は境水道を行き来する人流を監視していたのでしょう。

 永禄9年(1566年)11月、尼子氏6代の居城であった月山富田城は毛利軍によって落城しますが、それに先立ち同年3月、亀井秀綱は伯州弓ヶ浜で毛利方の杉原盛重によって討死しました。その経緯は毛利方の尾高城主、杉原播磨守盛重が策を用いて坂江(境)の高岡城主、武良内匠頭を味方に引き入れ、秀綱を網漁遊びに誘わせます。不用意に内匠頭を信じた秀綱が家来50人の小勢で海に出た時、急に杉原勢200の武装兵に取り囲まれ、竹内辺(境港市竹内町)の小丘にて一子清若丸と共に自刃するのです。

 現在、亀井塚は頂上部分を残して、斜面はその名の通り共同墓地になっています。亀井塚の昔の写真を見ると頂上に木製の墓碑があったのですが、これがなくなって以来、誰の墓なのか地域住民にもわからなくなっていました。そこで昨年、この墓地の共同組合が外壁等整備事業を行った際、亀井塚の由来等を設置しませんかというご提案をいただき、頂上部分を私と両親で整備することになりました。雑草が生い茂り荒れ果てていたのですが、来待石のニホンイシガメを置き、由来が書かれた石碑と墓碑を建てました。「亀井能登守秀綱の墳墓」の文字と裏面は私の書を彫っていただきました。
 整備を行った須田石材店によると、ニホンイシガメの頭を月山富田城の方角に向けて置いたそうです。これを設置する時、近隣のご老人が現れ、亀井塚そのものが月山富田城を向いた亀の形になっているのだと教えられたそうです。

 2021年7月、安国寺ご住職に法事をお願いし、石像除幕式を作者(須田益在氏)、共同組合役員、両親、私と事務所スタッフ立会いの下で行いました。忘れがたい出来事になり、私は時々お参りに行っています。

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