活動報告(ブログ)

アフガニスタン退避作戦についての考察

 「カブールが今にも陥落しそうだ」「アフガン人の協力者を何とか救出できないか」と「アフガン寺子屋プロジェクトin島根」の代表から相談を受けたのは8月13日(金)のことでした。アフガン女性の教育支援を目的として小学校建設のための募金活動をしているこの団体は、シャンティ国際ボランティア会を通して2001年以来20年間で17校を建設してきました。要請はシャンティ国際ボランティア会からでした。

 与党で政府入りしている場合は別ですが、国会議員であっても個人にできることは少なく、所属政党か議員連盟から政府にアプローチするしかありません。国会閉会中、しかもお盆期間に集まることは難しく、党の外務部会に働きかけましたが開催は24日(火)になってしまいました。一方、「人権外交を超党派で考える議員連盟」の動きは早く、役員持ち回りで政府への要望書を作成し、19日(木)付で国場外務政務官に手交しています。

 自衛隊機を派遣しながら日本人1人と(予定していなかった)外国人14人しか輸送できなかった、500人が置き去りにされた、と政府が批判されていますが、なぜそんなことになったのでしょうか。カブールが陥落したのは8月15日(日)でした。政府は現地の緊迫感をつかめていなかった、そして邦人救出しか頭になかったのではないか、と私は思います。恐らくカブールの日本大使館職員が英国機でドバイに脱出した、というところで安堵し、それからアフガン人の職員や協力者等について考え始めた。そして自衛隊機の派遣を決めた。各国と比べて行動が一足遅かったとしか言いようがありません。今回の作戦は自衛隊法84条の4、「当該輸送を安全に実施することができると認めるときは、当該邦人の輸送を行うことができる」に則っているのですが、安全の確認や武器使用の問題ではなく、情報収集能力が低かった、各国が活動していた比較的安全な時期に派遣できなかったということでしょう。自衛隊法の改正に言及する人もいますが、それ以前の問題です。

 確かに不運も重なりました。ただ1人、自衛隊機に乗ってパキスタンに脱出できたジャーナリストの安井さんによると、26日(木)に空港でテロさえなければ、約500人の脱出はうまくいっていたのではないか、と言います。集合場所のホテルから政府が用意したバスに乗って空港に向かっていたその日にテロがあり、辿り着けなかった。そしてテロを境にタリバンの態度が変わり、アフガン人の出国を認めなくなったのです。安井さんはテロの翌日、カタール政府が用意したバスにジャーナリストの身分証で乗車して空港に到着し、自衛隊機に搭乗してパキスタンのイスラマバードに退避しました。

 8月31日(火)、パキスタンからオンラインで集会(人権外交を超党派で考える議員連盟)に参加した安井さんは、タリバンとの交渉をパキスタンに頼み、アフガン人の出国を認めてもらうことを提案していました。日本は長年、パキスタンに援助しており、アフガニスタンとパキスタンの国境は平時には普通にバス移動ができるそうです。また米軍が去った後、カブールの空港はトルコ軍が管理しています。空路でも陸路でもタリバンと交渉さえできれば輸送は可能であり、内戦状態というほど現地が混乱しているわけではないようです。

 日本政府はカブールの大使館閉鎖後、トルコの日本大使館(イスラマバード)に臨時で機能を移し、9月1日(水)からはタリバン政治部門が拠点を置くカタールのドーハに事務所を開設しています。タリバンと各国との交渉はドーハで行われているようです。

 9月9日(木)、カタール航空のチャーター機で約100人の欧米人がカブールからドーハに到着しました。またJICAのアフガン人職員3家族が陸路でパキスタンに出国できたことが明らかになりました。日本政府が支援対象としたアフガン人の出国をタリバンが認めれば、今後民間機で出国する等、事態は好転するはずです。インターネット等の通信環境は維持されているようなので、日本は必ず救出するというメッセージを取り残された人々に送りながらタリバンと交渉を続ける、そして人道的な観点から査証手続きの迅速化や対象者家族の受け入れの緩和をするべきでしょう。

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